聖書のみことば
2022年1月
  1月2日 1月9日 1月16日 1月23日 1月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月16日主日礼拝音声

 ヤイロの娘の蘇生
2022年1月第3主日礼拝 1月16日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第5章21〜43節

<21節>イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。<22節>会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、<23節>しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」<24節>そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。<25節>さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。<26節>多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。<27節>イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。<28節>「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。<29節>すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。<30節>イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。<31節>そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」<32節>しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。<33節>女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。<34節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」<35節>イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」<36節>イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。<37節>そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。<38節>一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、<39節>家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」<40節>人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。<41節>そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。<42節>少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。<43節>イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 ただいま、マルコによる福音書5章21節から43節までをご一緒にお聞きしました。
 ここには二つの奇跡の物語があり、いわば組み合わされて語られています。ユダヤ人の会堂長ヤイロという人の娘が深刻な病気に罹り亡くなったけれど主イエスによって癒されたという出来事と、長年出血性の病気に苦しめられてきた一人の女性が主イエスによって癒されるという二つの出来事です。
 今日は、ヤイロの娘の出来事を中心に御言葉を聞こうと思います。

 21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた」とあります。「主イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡った」と言われているのは、カファルナウムがある湖の北岸に戻って来られたということを表しています。カファルナウムの町では、主イエスは何度か悪霊を追い出したり癒しをなさるという不思議な奇跡を行なっておられました。そのような主イエスの噂が知れ渡っていましたので、主イエスが戻って来られると、どこからともなく大勢の群衆が集まり始めました。しかしそういう中に、是非とも主イエスの助けを必要としている一人の父親がいました。
 ヤイロと名前が出てくるこの人物は、カファルナウムの会堂長だったと紹介されます。22節23節に「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう』」とあります。会堂長というのは、各地に建てられていた、シナゴーグと言われるユダヤ教の会堂の管理を任されていた人です。会堂長と言われていますのでいかにも一人の責任者のように感じますが、記録によると3人とか7人という数字が残っており、実際にはどの町の会堂にも複数の会堂長がいたようで、ここに「会堂長の一人」とあるのは、そういうわけです。ユダヤ教の会堂では安息日毎に礼拝が守られましたが、それだけではなく、公会堂や公民館のような役目も果たしていました。極めて公共性の高い建物でしたから、それを管理する会堂長も、町の中で人望のある人がその役目に就いていました。ヤイロは土地の名士の一人だったわけです。そのヤイロの娘の病状が重いということは多くの人が知っていて心配し、そして、主イエスの帰りを待っていたのでした。

 しかし、大勢の人が心配してくれているものの、ヤイロ自身の立場からしますと、事情はそんなに単純ではありませんでした。というのも、マルコによる福音書3章に言われていたことですが、主イエスはカファルナウムの会堂で一部のユダヤ人たちと極めて関係が険悪になるということがあったからです。その人たちは会堂を出て、「主イエスを殺そうと相談した」と言われています。
 ヤイロにしてみますと、死にかけている自分の娘を何とかして主イエスに助けていただきたいと願う親心と、ユダヤ教の会堂長として、その町のユダヤ人の共同体をまとめていかなければならない立場との板挟みの状態になって、悩みを深くしています。ヤイロが自分の家族のために主イエスのもとを訪れるということは、決して当たり前のことではありませんでした。後の方で、娘が亡くなった時に家の者たちが「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言っていますが、それも主イエスがこの町のユダヤ人たちと関係が険悪になっていることが反映しています。ですから、ヤイロが主イエスの前にやって来るまでには、かなりのためらいの思いがありました。それでも来たのは、娘の病状が真に深刻だったからで、意を決してヤイロは主イエスの前に現れ、ひれ伏し、「わたしの幼い娘が死にそうです」と、厳しい現状を訴えました。

 まさに、この娘はこの時、死にかけていたのでした。この娘については「12歳」と言われています。当時のユダヤでは、女性は12歳で成人しました。ですから「12歳の娘」であれば既に成人しており、間もなく結婚の話が起こってもおかしくない年頃です。ところがヤイロはその娘のことを、「わたしの幼い娘が死にそうです」と言っています。娘は成人していたに違いないのですが、ヤイロにとっては小さい頃から育ててきて、やっとここまで育ってくれた大切な娘なのです。ところが、その大切な娘が、今、ヤイロのもとから失われそうになっています。人間的には手の施しようがなくなっている、そんな中で、ヤイロは主イエスに信頼を寄せたのでした。
 問題を抱える中で、主イエスのもとに赴く人というのは、既にそこで信仰が働いています。主イエスのもとに行こうと決心することは、信仰です。主イエスのもとに向かって行く道は既に信仰の道であって、ヤイロは今、その道の中に立っているのです。
 病気の娘のために医者を呼びに行くということは、父親とすれば当然の思いであり行動でしょう。しかしここでは、ただ単に医者を呼びに行くということが起こっているのではないのです。はっきり言ってしまえば、すでに手遅れの状況です。それでも、愛する娘のためにヤイロは行動しています。主イエスに深く信頼を寄せて、自分自身の社会的な立場は顧みず、ヤイロは主イエスのもとに赴きました。

 しかし、主イエスのもとまで行ってヤイロは一体何を求めたのでしょうか。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」とヤイロは言いました。命が今にも失われそうな深刻な状況にあって、「手を置く」という行為に一体どれほどの意味があるのかと思う方はいらっしゃるでしょう。「今にも亡くなりそうな人の上に手を置いて祈っても、病気の回復には繋がらない。それは気休めの行いに過ぎないのではないか」と、今日の私たちは批判的に考えるかもしれません。
 けれども、一体今の時代の考え方や判断が果たして本当に正しいと言えるのでしょうか。今の時代の診断や治療方法が絶対に正しく唯一の道なのでしょうか。どの時代に生きる人でも、その時代の考え方に影響されて偏った判断に陥るということはあり得ることです。そしてそのために、真に大切な、決して見過ごしてはならないはずの事柄を平気で見過ごしてしまい、それでいて自分としては正しく判断できていると思い込んでしまう、そういう場合があるのです。
 ヤイロは、「主イエスが来て手を置いてくだされば、娘は生きるに違いない」と信じました。ヤイロが求めたのは決して気休めなどではなく、「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言って、大真面目に「主イエスとの関わりによって娘は生きるのだ」と信じています。そして不思議なことですけれども、実際その通りになっていくのです。

 会堂長ヤイロは主イエスに深く信頼を寄せ、その信頼故に主の前に身を低くし、そして、今差し掛かっている人生の難所を越えて生きて行きます。主イエスはヤイロの信仰をご覧になり、その信仰に応えて行動を起こしてくださいました。24節に「そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」とあります。主イエスは、ヤイロの家へ連れ立って出かけて行かれます。ヤイロは医者を連れて帰るのではありません。それ以上の事が起きています。ヤイロは主イエスを「神と共にある方」として、その前にひれ伏し、そして主イエスに期待を寄せ、一緒に家まで来ていただくのです。ヤイロからすれば、主イエスを家にお連れすることは、「神ご自身を自分の家にお迎えする」、そのような思いでした。
 ですから、道すがら「お嬢さんは亡くなりました」と知らせを受けた時にも、主イエスによって信仰を励まされます。ただ名医を連れ帰ると思っているのであれば、死の知らせはヤイロを打ちのめしたに違いありません。人間である限り、どんな名医だとしても、人は人を援助できるだけだからです。しかし自分と共に歩んでいてくださる方が神であるならば、たとえ死の出来事が起こる時にも、その死を超えて、なおそこでは「人が生かされる」ということが起こり得ます。
 娘の死の知らせを受けたヤイロが、その時に何も感じなかったはずはありません。激しい衝撃を受けて、それこそ私たちも近しいところで死の出来事が起こる時にはそうなるのですが、ヤイロもまた自分自身の死ということをそこで経験させられたに違いありません。けれどもヤイロは、ここで、主イエスに伴われているのです。
 主イエスは、衝撃を受けているヤイロに御言葉をかけてくださいました。そして、その御言葉によってヤイロは救われ、再び生きる者とされていきます。35節36節に「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」とあります。人間的な判断から言えばヤイロの娘の容態は極めて重く、もはや手の施しようがないこと、そして遠からず死が訪れるに違いないことを、ヤイロも分かっていたに違いありません。もしまだ何らかの人間的な手立てが残されていたのであれば、ヤイロは主イエスの前に身を低くするよりも、そちらに頼っていたことでしょう。ヤイロが「主イエスに信頼することに決めた」のは、人間的な手立てがもはや尽きていたからです。
 そういう状況の中で、しかしヤイロは、恐れていた言葉、決して耳にしたくない知らせを耳にしました。娘の死の知らせです。万事が窮したと感じられたかもしれません。娘が亡くなり、そして自分自身も死を経験し、打ちのめされ貧しくなっているヤイロ。しかしその傍に、主イエスがおられるのです。そして「なお、信頼してよい」ことを、主イエスはヤイロに告げてくださいました。「恐れることはない。ただ信じなさい」、その言葉に我に返らされるようにして、ヤイロは、主イエスへの信頼を持ち続けたまま家に帰り着きました。

 会堂長の家では、すでに死者を弔う支度が始まっていました。泣き女たちが手配され大声で泣きわめき、死の悲しみの大きさを表現していました。
 ところがそんな中で、主イエスが不思議な行動をなさいます。家に着いたばかりで、まだ娘と対面もしていないのに、主イエスは言われました。38節39節「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ』」。死んだ娘の様子をご覧になってこう言われたのではありません。娘と対面する前に、娘の様子を見定める前に、「この子は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われました。
 主イエスのこの言葉を聞いて、娘が亡くなったことを知っている人たちは、主イエスのことをあざ笑いました。無理もないと思います。亡くなった人について、「それは眠っているだけだ」と言ってみたところで、果たして何になるでしょうか。死の現実はどうしようもなく、ヤイロの娘を捕らえています。「どうすることもできないではないか」、そう思って人々は主イエスをあざ笑ったのです。

 ところが真に思いがけないことになりました。この後、事態は主イエスの言った通りに進んでいきます。それはまるで、神が御言葉によってこの世界を何もないところからお造りになった、あの最初の日の様子を見せられているかのようでした。40節から42節に「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」とあります。思いがけない出来事に出会って、この場に居合わせた人々は、「我を忘れた」と言われています。

 北極圏に一日中オーロラが出続けている町があるそうです。オーロラが頭の上にあっても日中は見えません。ただ11月から2月までは一日中が夜なので、その時にはいつもオーロラが頭の上にあるのを見ることができるそうです。けれども冬の季節は吹雪が多く、雲の上に輝いているオーロラを見ることができません。晴れる日は週に1日あるかないか、しかし運良く雲が切れて晴れの時間帯にぶつかりますと、自分の頭の上でオーロラが緑から赤へ、また赤から緑へと姿を変え色を変え、その大変美しい様子に時間が経つのを忘れて見入るのだそうです。
 けれども、この日ヤイロとその妻と主イエスの3人の弟子が目にしたことは、オーロラ以上のことでした。亡くなり失われてしまったと思った娘の命を、主イエスがもう一度造ってくださり、再び地上を生きる者としてくださいました。両親はこの日、主イエスがおっしゃった言葉をはっきりと聞き取っていました。「タリタ、クム。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」、するとこの娘は起き上がり、歩き出したのでした。主イエスが「起きなさい」とおっしゃると、死んで失われたはずの人が、再び生きてそこで歩くようにされたのでした。そしてその様子を目撃した人は、我を忘れるほど驚いたのでした。

 ここに起こっている奇跡とは、一体どういうことなのでしょうか。死んだはずの娘が再び生きるようになった、それが奇跡なのでしょうか。確かにそれも奇跡には違いありません。しかし、聖書はそういうことを伝えようとしているのでしょうか。すなわち、「この娘は、一旦は死んだけれど、また生きるようになった。あなたがたはそのことを信じなさい」と言われたなら、私たちは、この話を受け取るのに大層苦労することになると思います。私たちにとっては、死は死であり、それは決して動くことのない事柄のように思えるからです。

 聖書がここで言っている事柄の中心は、「死んだはずの人について、それを眠っているのだとご覧になり、そう言ってくださる方がおられる」ということです。死の出来事が起こって一人の人が地上から取り去られる時に、しかしその出来事をまるで命の造り主である神のようにご覧になり、命を与える方がおられる、それが、聖書がここで私たちに告げている奇跡の正体です。
 この方は、そのことであざ笑われても怯みません。「わたしは死んでも生きる。わたしを信じる者は死ぬことがない」、そうおっしゃる方がここにおいでになっています。そしてその方が、「わたしを信じるのか」とお尋ねになるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。あなたはわたしを信じて、生きてよいのだ」と主イエスは言われました。ヤイロがそういう方に出逢わされ、そして全てに勝る希望をこの方にかけて、この方を信じて生きるようになっている、そのことが一つの奇跡です。

 ここに語られている事柄を考えますと、改めて、今日ここに集まっている私たちも、「十字架と復活の主イエスを信じ、その主に信頼を寄せ、御言葉を聞いて慰めや勇気や励ましをいただいて生きている」ということ自体が、それぞれに私たちの身に起こっている奇跡なのだと言えるのではないでしょうか。
 もちろん私たちは、主イエスを信じたからといって不死身になるわけではありません。いずれは健康が衰え肉体の死の時が訪れます。それでも、主イエスに伴われている者は、主の御言葉に励まされながら永遠の命を生きる者とされていくのです。私たちが死の床に横たわり棺の中に横たえられる時でも、主イエスが、「起きなさい。あなたはわたしと共にあるのだ。わたしと共に生きるのだ」とおっしゃってくださいます。
 聖書が伝える永遠の命というのは、そういうものだろうと思います。肉体が不死身でいつまでも生き続けるということではありません。また、死を考えるのが怖いから死を見ないように、死のことを考えないようにして、死から遠ざかるというのでもありません。そうではなくて、死の只中に置かれる時にも、「恐れるな。わたしは生きている」とおっしゃってくださる方がいつも伴ってくださるので、私たちは死を宿しているこの肉体の中にあっても、なおそこを生きる者とされていくのです。

 ですから私たちは、毎週毎週、礼拝の中で新しくされ、ここからもう一度力を与えられて歩み出すことが許されています。主イエスが共に歩んでくださる、ここから始まる新しい歩みに主が伴ってくださり、「タリタ、クム」と私たちにも呼びかけてくださるのです。ヤイロの娘が生き返らされ、そしてその娘の時を生きたように、私たちもまた、今日ここで主イエスから「あなたはここからもう一度生きるのだ」と呼びかけられています。

 様々な不自由さの中に閉じ込められ、不安や恐れに捕らえられそうになるこの生活の中で、主イエスが私たちと共に歩んでくださいます。「あなたは今日を生きるものとされている」との御声を聞きながら歩む、幸いな者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。

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